2016年02月18日

戦国武将と杉並木

戦国武将と杉並木
こんにちは。2月中旬の雨で雪融けが始まったかと思えば、翌日は雪が降ったりと、体の調子もおかしくなってしまいそうな天気が続く戸隠です。
上の写真と下の写真、戸隠地区内で連続する2日間に撮ったものです(撮影地の標高差はありますが)。
戦国武将と杉並木

さて、1月から始まった大河ドラマ「真田丸」は、ご覧になっていますか?
冒頭のタイトルバックに戸隠の鏡池と奥社杉並木が登場すること、そして、舞台が信州であるということだけでも、戸隠人ならびに、長野県民の方々にとっては、注目度の高い番組となっています。
さて、鏡池の方は真田家の物語と直接的には関係ありませんが(生涯城を持たなかった真田信繁(幸村)の理想の都を想像し、県内各地の風光明媚なスポットを組み合わせて表現したとか)、戸隠神社奥社参道の杉並木の歴史とは、少し関わりがあるのをご存知でしょうか。

戦国の動乱の時代、信濃の国は越後の上杉家と甲斐の武田家の五度に及ぶ戦争の渦中にありました。戸隠も例外ではありませんでした。
霊山・戸隠は両家にとって政治的な要所。戦禍を逃れるため、一時は衆徒が山を離れ隣村に疎開を余儀なくされた歴史もあります。

その後、武田家が滅亡し、本能寺の変を経て、戸隠山が上杉方にあった文禄元(1592)年。
豊臣秀吉より朝鮮出兵を命じられた上杉景勝は、春日山城に滞在していた戸隠山別当の賢栄に戸隠大権現へ戦勝祈願を奉納させます。
第一次朝鮮出兵は1594年末に一旦講和。無事帰還したことの御礼として戸隠山の復興を行い、その際に多くの杉を寄進したと言われています。
戦国武将と杉並木
立春前日、奥社参道にて(写真提供:studio yukey)

豊臣秀吉が世を去った慶長3(1598)年、徳川家康に反発した上杉景勝は、会津へ。戸隠山は徳川家の支配下となります。
慶長16(1612)年には、「戸隠神領」として千石を寄進された戸隠。同時に幕府により「戸隠山法度」を賜り、戸隠山顕光寺は修験道から天台宗の寺院として改められ、新たな時代を迎えました。
戦国武将と杉並木
上の写真は、その当時から神社として祀られていた火之御子社。
火之御子社の神職を代々務めていたのは、江戸時代以前に戸隠山の別当も出したことのある家柄の栗田家(山栗田)です。
幕府からの千石のうち、二百石は栗田家が受け取っていたことも知られています。

〜大杉や 兵(つわもの)どもが 夢の跡〜

戦国の歴史を見てきた戸隠の大杉。兵たちが去った今もなお、私たちの営みを見守ってくれている、貴重な存在です。



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この記事へのコメント
戦国武将の信仰は大変なものでしたんですね。
Posted by まさみちゃんまさみちゃん at 2016年02月18日 10:35
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